仏教観
仏教とは、今からおよそ2500年前──
現在のネパールにあったカピラバストという小国の王子、ゴータマ・シッダルタが、
生きることの苦しみから解放されたいと願い、
王位やお城、家族までも手放して苦行の道に入り、
やがて大自然に存在する「真理」を発見したことから始まった教えです。
彼が説いた「生き方」「在り方」「考え方」は、やがて経典(教義)としてまとめられ、
時代を超えて、今日まで語り継がれてきました。
仏教を学ぶことで、大自然の法則=真理が見えるようになり、
人生はもっと“整いやすく”なります。
まずは仏教を知り、仏教観というものの見方・捉え方を、あなたの中に育てていきましょう。
仏教を学んで仏教観を身につけることをお伝えしていますが、特定の宗教へ勧誘しているものではありません。

仏教は生き方のトリセツ!
仏教へのイメージを書き換えましょう!
「仏教」と聞いて、あなたはどんなイメージを持っているでしょうか?
きっと──
「お寺」「仏さま」「仏像」「お坊さん」「お葬式」「法事」「お経」……
そんな印象が浮かぶ方も多いかもしれません。
もちろん、それらも仏教の一部ではあります。
でも、本来の仏教とは、「仏の教え」そのもののことを指します。
ここでいう「仏」とは、仏陀(ブッダ)のこと。
そして「仏陀」とは、目覚めた人という意味を持つ言葉です。
では、そのブッダはどんな人生を歩み、
何に目覚めたのでしょうか──
これから、少しずつお話ししていきましょう。

『仏さま』ってどんな人?
ここでいう「仏さま」とは、お釈迦さま(ブッダ)のことを指します。
お釈迦さまは今から約2500年前、現在のインドとネパールの国境付近にあった
カピラバストという国に、ゴータマ・シッダルタとして王子に生まれました。
けれど、豊かで恵まれた暮らしの中でも、人生の苦しみや人の心に深く悩んでいたのです。
その答えを求めて、王位や家族、すべてを手放し、苦行の道へ進みました。
やがて彼は、大自然の中にある“真理”に目覚め、
一人の人間として、「仏陀(ブッダ)=目覚めた人」となったのです。
その教えは言葉として綴られ、経典となり、
今もなお、仏教として私たちの心に語りかけ続けています。

仏教は悩みから始まった!
シッダルタが生まれた当時のインドでは、
バラモン教が主流で、厳しいカースト制度(身分制度)が人々を分けていました。
身分によって人間の価値が決められ、
差別や不平等が当たり前のように存在していた社会──
そんな中で、すべての人が平等に生きられないことに、シッダルタは深い疑問を抱いていたのです。
そして彼は気づきます。
どんなに高い身分の人でも、どんな立場の人でも、
「生・老・病・死」の苦しみからは誰も逃れられないという現実に。
その苦しみの正体は何なのか?
どうすれば、人は苦しみから解放されるのか?
答えを求めて、彼はすべてを手放し、
王子という立場さえも捨てて、苦行の道へと歩み出したのです。

苦行を捨てることで悟れた!
シッダルタは、当時のどの修行者も避けるような、
生死の境をさまようほどの激しい苦行を、なんと6年間も続けました。
けれど、どれだけ苦しめても「悟り」は訪れませんでした。
ついには命が尽きかけたそのとき、
村の娘・スジャータが差し出した乳がゆによって、かろうじて命を取り戻します。
その瞬間、シッダルタは深く気づきます。
「命を失っては、悟りも真理も意味をなさない」と。
そして、苦行を手放し、これまでのすべてを見つめ直すために──
一本の菩提樹の下で静かに瞑想を始めました。
そこで彼はついに、
生きる苦しみの本質と、それを超える“真理”を悟ったのです。
この瞬間、シッダルタは「仏陀(ブッダ)=目覚めた人」となりました。

悟っただけでは、意味がない?!
シッダルタは苦行を超えて、菩提樹の下で真理に目覚め、ブッダとなりました。
しかし、“悟った”というだけでは、本当の意味で苦しみはなくならないことも彼は知っていました。
自分だけが気づいて終わるのではなく、
その智慧を伝え、実践し、共に生きることこそが大切だと。
だからこそブッダは、立ち上がり、人々のもとへ歩き始めたのです──
苦しみを超えて、生きることの本当の意味を伝えるために。
仏教観を学ぶのはこの部分!
実は、ブッダが悟った“真理”とは──
わたし達が日々の暮らしの中で悩み、苦しむとき、
そこから自由になるための「生き方の取扱説明書」のようなものなのです。
その真理がどんなものかをこれから一つずつ順番にお話ししていきます。